読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ひもじい思い、させたくない 本紙投書した岐阜の水野さん



戦時中のひもじい暮らしの様子を投書で寄せた水野靖弘さん=岐阜市高原で

 15日で終戦70年を迎えるのを前に、戦時中だった子どものころのひもじい暮らしをつづった投書が、岐阜市高河原の日比野金さん(80)から本紙に寄せられた。「今の子に、つらい目に遭ってほしくない」との思いで筆を執ったという水野さん。その内容を市内の小学生3人に読んでもらい、感想を聞いた。
 長良川沿いの村で生まれ育ち、六人きょうだいの三番目で、終戦時は国民学校の四年生でした。父親は航空機の工場勤めで、配給だけが頼り。食べ盛りのときに満足に食べられず、ひもじい思いをしました。
 米が配給された時でも、よくかきまぜないと米粒が浮かんでこないほど薄いかゆを茶わん一杯だけ。川の堤防で摘んだタンポポやレンゲの花でかさ増ししました。赤土が混じった岩塩を湯で溶いたものをかけ、すすりました。
 配給の米は麦になり、芋になりました。麦は「ふすま」と呼ばれる皮や胚芽も食べましたが、硬くてかめなかった。芋も、今みたいに甘くない。「護国」という品種で、大きさだけは漬物石ほどあり立派でしたが、びっくりするほど味が抜けていて、まずかった。
 それも途絶えがちになると、自分たちで作るしかない。でも、うちは畑がない。困った揚げ句、堤防の陸側をくわで崩してなだらかにして、豆や芋を植えました。命を守る堤防を食のために犠牲にするなんて、今では考えられないでしょう。でも、何の疑問も持ちませんでした。
 一九四三年の秋、旧満州に出征することになった父が一俵の米を担いできました。近所の農家から買った闇米。家族を置いていくのが心配でたまらなかったんでしょう。ところが、父を見送った後のある日、コクゾウムシという黒い米食い虫が大量に湧いてしまった。「無駄にしてはだめ」とかゆにしましたが、酸っぱくて食えなかった。その時は虫を心底恨みました。
 父は終戦の翌年に復員。村には空襲が無く、家族は全員無事でした。でも、あんな惨めなことは二度と繰り返してはいけません。今、当時の私ぐらいの歳の子を見かけるたびに、その思いを強くします。
◆当たり前の生活、周りに感謝
 <岩野小学校三年、島塚太郎君(8つ)>お母さんが作る野菜たっぷりのカレーライスが大好きです。おかわりを頼めば、おなかいっぱい食べられます。
 でも、昔はおかゆや芋ばかりの食事だったことを聞き、当たり前の生活が送れることを周りの人に感謝しなければいけないと思いました。水野さんのように、戦争で苦労した人たちの上に僕たちの暮らしが成り立っていることを考えながら、生活していきたいです。
◆二度と戦争してはいけない
 <岩野小学校四年、尾関真君(9つ)>戦争の話は、親戚のおばあちゃんから少し聞いたことがあるくらいで、詳しくは知りませんでした。水野さんの話で、何を食べていたかがよく分かりました。
 七十年前は、僕と同じ学年の時にこんなにひどい暮らしをしていたのかと思い、とても悲しい気持ちになりました。たくさんの人を殺し、空腹でつらい思いをさせてしまう戦争は、二度と起こしてはいけないと思いました。
◆今では考えられない暮らし
 <岩田北小学校五年、佐村桃さん(10)>戦争について知っていたのは、戦地で亡くなった人の家族が悲しむ話をテレビで見たくらいで、ごはんのお話ははじめて聞きました。自分たちのような子どもがごはんを満足に食べられず、また、お米に虫が湧くなんて今では考えられません。私の毎日の暮らしが幸せだなあと感じます。うちではお母さんがごはんを作ってくれます。魚料理は苦手ですが、しっかり食べないといけないと思いました。