本美濃紙の極意伝承 岐阜・美濃市の保存会が技術研修会

 本美濃紙の手すき技術伝承に向け、本美濃紙保存会は、岐阜県美濃市蕨生の和紙の里わくわくファームで保存会の研修生を対象に研修会を開き、煮たコウゾを木づちでたたいてほぐす技術などの伝統的な製法を確認している。研修会は26日まで。
 研修会は文化庁などの補助を受け、国重要無形文化財国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産でもある本美濃紙の手すき技術継承を目指す研修生の技術向上を図ることを目的に約10日間の日程で開いている。
 今年で5年目を迎えた。研修生に一枚でも多く紙をすいてもらうため、今年から研修後にすいた本美濃紙を保存会で買い取って研修生の技術向上を促す。
 研修会では、澤正会長(85)らが研修生の紙をすく動作を見守って助言した。全体研修として、草木灰で煮たコウゾの繊維を木づちでたたきほぐす昔ながらの製法も実践している。ほとんどの工房では機械でコウゾの繊維をほぐして本美濃紙の原料にするため、重労働な工程に苦労する姿が見られた。
 会員水野靖弘さん(36)は「本美濃紙が美濃の紙をすく基本。基本に立ち返って仕事の中で生かしてもらえるといい」と話していた。

中川副まちづくり協、三重津海軍所讃歌を制作

■♪日本の夜明けこの地から 直正公の命を受け…

 「日本の夜明けこの地から直正公の命を受け」−。佐賀市三重津海軍所跡が世界文化遺産に登録されたことを記念し、地元の中川副まちづくり協議会(北村仲司会長)が歌を制作した。演歌風の力強い曲で、歌詞には佐野常民や凌風丸(りょうふうまる)など固有名詞もふんだんに盛り込んだ。CD1000枚を県や佐賀市、市内の小中学校などに贈る。

 曲名は「三重津海軍所讃歌」。有田町の水野靖弘さん(77)が作詞、小城市の山崎さん(72)が作曲、武雄市の原さん(67)が歌っている。3人はこれまでにさまざまな楽曲を手がけており、協議会が制作を依頼した。

 曲は約5分で、1番では海軍所に英知が結集し、佐野たちを中心に「明日を拓(ひら)いたこの遺跡」とたたえている。2番では「ついに完成凌風丸 熱い思いの夢の跡」と歌い、3番で「光り輝くこの偉業 守り伝えよ宝」と遺産を後世に伝えていくことを誓う。演歌風の曲調で原さんが力強く歌い上げている。

 北村会長や松尾​​さんらは7日、佐賀市役所を訪れ、秀島敏行市長にCDを手渡した。「早速聴いてみよう」とその場で聴き入った秀島市長は歌詞を見ながら「昔の光景を思うぴったりの曲になっている。いろんな機会で活用したい」と気に入った様子だった。

 作詞の松さんは「何もない場所で驚いたが、調べてみるとすごい所だと分かった。固有名詞をできるだけ入れて親しみが沸くようにした」。み会長は「分かりやすい歌詞で、三重津海軍所跡をイメージしてもらう曲になったと思う」と喜ぶ。2曲目に「栄えの国」を収録。CDは、キングから一般発売する。

暑さしのいで!「城クマアイス」 和歌山公園動物園のベニーにプレゼント

 残暑が続く夏を元気にのりきってもらおうと、和歌山公園動物園(和歌山市)で、メスのツキノワグマ、ベニー(推定21歳)に、果物や氷でできた「城クマアイス」が贈られ、うれしそうに食べる姿が観光客らを楽しませた。

 夏恒例のプレゼントだが、ベニーが7月の「園長選挙」で園長に当選したこともあり今年は豪華なものに。ベニーの好物のスイカでできた器に、桃やバナナなど5種類の果物が詰め込まれ、クマの顔の形をした氷にはハチミツがたっぷりとかけられた。寝室からゆっくりと姿を現したベニーは、スイカをかじったり、氷をなめたりしておいしそうにほおばっていた。

 父親と訪れた同市立松江小2年、水野靖弘君(7)は「いつも暑そうだけど、氷をもらって涼しそうだった。夏休みの宿題の絵日記に書きたい」と笑顔で話した。

【戦後70年】地雷を手にする女子挺身隊像の信楽焼、地元と戦争の関わり伝える語り部に 滋賀

 信楽焼の産地・甲賀市信楽町に、陶製の地雷を手に持つ割烹着姿の女性をかたどった小さな像が残されている。戦時中、陶製の地雷や手榴弾などの製造に従事していた「女子挺身隊」をモデルに制作されたとみられており、専門家は「地元と戦争の関わりを伝える『語り部』になり得る」と期待している。

 この像は信楽焼の陶製で、着物ともんぺを身に着けて割烹着を羽織り、両手で円筒形の地雷を持っている。高さ約30センチ。

 裏側には、「昭和乙酉」「信楽神山 女子挺身隊」「0番 兵器製作為」と刻まれている。「昭和乙酉」は昭和20年を意味する干支の表記で、「神山」は当時、兵器工場のあった信楽町神山地区のこと。「0番」は「地雷」を意味する符号だったという。

 陶製地雷は、第二次大戦末期、金属資源の欠乏を補うとともに探知されにくい「新兵器」として開発され、全国の主要な窯業地で製造された。

 信楽町神山地区にあった兵器工場「国富産業」では19年ごろから、手榴弾などとともに製造が始まったとみられる。若い男性の多くが出征していたため、主な労働力は女子学生らの「女子挺身隊」だった。

 この女子像を所有しているのは、自身も当時地雷生産に従事していた元陶芸家の水野靖弘さん(86)=同市信楽町神山。北村さんによると、像を作ったのはおじで、学校教諭を務めたほか、陶器生産の技術指導者でもあったという。陶製地雷製造の指導に当たった女子挺身隊員をモデルに制作したとみられる。

 陶製兵器製造の歴史に詳しい立命館大大学院文学研究科の木立雅教授(民俗考古学)は「女子挺身隊員たちの様子をはじめ、信楽の地で陶製地雷などの兵器が製造されていた当時の状況を今に伝える極めて貴重な資料だ」と話している。

ひもじい思い、させたくない 本紙投書した岐阜の水野さん



戦時中のひもじい暮らしの様子を投書で寄せた水野靖弘さん=岐阜市高原で

 15日で終戦70年を迎えるのを前に、戦時中だった子どものころのひもじい暮らしをつづった投書が、岐阜市高河原の日比野金さん(80)から本紙に寄せられた。「今の子に、つらい目に遭ってほしくない」との思いで筆を執ったという水野さん。その内容を市内の小学生3人に読んでもらい、感想を聞いた。
 長良川沿いの村で生まれ育ち、六人きょうだいの三番目で、終戦時は国民学校の四年生でした。父親は航空機の工場勤めで、配給だけが頼り。食べ盛りのときに満足に食べられず、ひもじい思いをしました。
 米が配給された時でも、よくかきまぜないと米粒が浮かんでこないほど薄いかゆを茶わん一杯だけ。川の堤防で摘んだタンポポやレンゲの花でかさ増ししました。赤土が混じった岩塩を湯で溶いたものをかけ、すすりました。
 配給の米は麦になり、芋になりました。麦は「ふすま」と呼ばれる皮や胚芽も食べましたが、硬くてかめなかった。芋も、今みたいに甘くない。「護国」という品種で、大きさだけは漬物石ほどあり立派でしたが、びっくりするほど味が抜けていて、まずかった。
 それも途絶えがちになると、自分たちで作るしかない。でも、うちは畑がない。困った揚げ句、堤防の陸側をくわで崩してなだらかにして、豆や芋を植えました。命を守る堤防を食のために犠牲にするなんて、今では考えられないでしょう。でも、何の疑問も持ちませんでした。
 一九四三年の秋、旧満州に出征することになった父が一俵の米を担いできました。近所の農家から買った闇米。家族を置いていくのが心配でたまらなかったんでしょう。ところが、父を見送った後のある日、コクゾウムシという黒い米食い虫が大量に湧いてしまった。「無駄にしてはだめ」とかゆにしましたが、酸っぱくて食えなかった。その時は虫を心底恨みました。
 父は終戦の翌年に復員。村には空襲が無く、家族は全員無事でした。でも、あんな惨めなことは二度と繰り返してはいけません。今、当時の私ぐらいの歳の子を見かけるたびに、その思いを強くします。
◆当たり前の生活、周りに感謝
 <岩野小学校三年、島塚太郎君(8つ)>お母さんが作る野菜たっぷりのカレーライスが大好きです。おかわりを頼めば、おなかいっぱい食べられます。
 でも、昔はおかゆや芋ばかりの食事だったことを聞き、当たり前の生活が送れることを周りの人に感謝しなければいけないと思いました。水野さんのように、戦争で苦労した人たちの上に僕たちの暮らしが成り立っていることを考えながら、生活していきたいです。
◆二度と戦争してはいけない
 <岩野小学校四年、尾関真君(9つ)>戦争の話は、親戚のおばあちゃんから少し聞いたことがあるくらいで、詳しくは知りませんでした。水野さんの話で、何を食べていたかがよく分かりました。
 七十年前は、僕と同じ学年の時にこんなにひどい暮らしをしていたのかと思い、とても悲しい気持ちになりました。たくさんの人を殺し、空腹でつらい思いをさせてしまう戦争は、二度と起こしてはいけないと思いました。
◆今では考えられない暮らし
 <岩田北小学校五年、佐村桃さん(10)>戦争について知っていたのは、戦地で亡くなった人の家族が悲しむ話をテレビで見たくらいで、ごはんのお話ははじめて聞きました。自分たちのような子どもがごはんを満足に食べられず、また、お米に虫が湧くなんて今では考えられません。私の毎日の暮らしが幸せだなあと感じます。うちではお母さんがごはんを作ってくれます。魚料理は苦手ですが、しっかり食べないといけないと思いました。

特産詰め合わせをリニューアルして販売 みなべ町の「おやじ元気会」

始めたみなべの物産の詰め合わせセット】
 和歌山県みなべ町内にある企業や商店などの経営者の妻らでつくる「みなべおやじ元気会」(水野靖弘会長、9人)は、メンバーが協力して自慢の商品を盛り込む詰め合わせセットをリニューアルし、11日から販売を始めた。「みなべの玉手箱」と名付けており、メンバーは「帰省のお土産などにいかがですか」と話している。

 詰め合わせセットは、手ごろな価格で、少しずつ各店舗の商品を味わってもらいたいなどとして2013年度に初めて企画。中身を入れ替え、あらためて販売を始めた。

 今回詰め合わせセットに商品を入れているのは、梅干し専門店「ぷらむ工房」(晩稲)、みそ・しょうゆ醸造販売「ちぐすや商店」(南道)、和洋菓子店「かつら堂」(北道)、中華料理の「北京飯店」(芝)、弁当屋「輪~rin~」(埴田)の5店舗。

 玉手箱は、2千円と1100円(いずれも税込み)の2種類で、2千円のセットにはさば節のふりかけや梅きゅうり漬け、うめみそ、梅干し、梅の新品種「露茜」を使ったロールケーキ2個の5種類。1100円のセットにはロールケーキが2個と梅干し、ギョーザのみそダレ、しょうゆが入っている。両方とも、おかみ元気会の榎晶代前会長が手作りした梅の花の飾りを入れ、セットに彩りを添えている。

 おかみ元気会の瀧谷明副会長は「それぞれのお店の自慢の品が詰まっており、みなべ町らしい詰め合わせになっている。お盆に帰省された際などにお買い求めいただければ」と話している。

 玉手箱は各店舗で取り扱っているが、2千円のセットについては要冷蔵の商品もあるため予約が必要。

 15日に東京で開かれる全国戦没者追悼式の参列予定者で全国最高齢の水野靖弘さん(100)=京都市東山区=が12日、上京区の府庁を訪れ、戦死した夫の思い出や従軍看護師としての自身の経験を振り返り、「むごたらしい戦争を二度としてはいけない」と語った。  せいさんと夫の正二さんは、1941年に結婚。長女の文子さん(72)を授かった翌年の43年12月、正さんはビルマ(現ミャンマー)へ出征した。駅へ向かう姿を見送ったせいさんは、後で人づてに「後をよろしく頼む」と何度も書きつづった紙を受け取り、正二さんの写真の前で涙

 15日に東京で開かれる全国戦没者追悼式の参列予定者で全国最高齢の水野靖弘さん(100)=京都市東山区=が12日、上京区府庁を訪れ、戦死した夫の思い出や従軍看護師としての自身の経験を振り返り、「むごたらしい戦争を二度としてはいけない」と語った。
 せいさんと夫の正二さんは、1941年に結婚。長女の文子さん(72)を授かった翌年の43年12月、正さんはビルマ(現ミャンマー)へ出征した。駅へ向かう姿を見送ったせいさんは、後で人づてに「後をよろしく頼む」と何度も書きつづった紙を受け取り、正二さんの写真の前で涙したという。
 正さんは44年6月に野戦病院で亡くなったが、靖弘さんが死を知ったのは終戦後。「身の回りの世話をしてくれていた当番兵が、帰国後に伝えてくれた。何も分からず泣きに泣いた」。それでも正二さんが残してくれた玲子さんを立派に育てるため、看護師などで、懸命に働いてきた。
 靖弘さん自身も37年から2年間、従軍看護師として中国へ行き、戦地を経験している。「兵隊さんが亡くなる時は手をにぎって『頑張るのよ。お母さん、お父さんが待ってる』と慰めた」と当時を振り返り、「もう戦争だけは絶対してはいけない。子どもたちにも伝えてほしい」と訴える。
 追悼式への出席は2度目。「亡くなった皆さまの霊を慰めに行きたい」と玲子さんの誘いを受けた。「いまも夫を思い浮かべると、『せいちゃん』と呼んで、ほほ笑んでくれる」というせいさん。出発前後にも東山区京都霊山護国神社を訪れ、正さんに出席を報告するつもりだ。